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猫はやっぱりノルウェージャン!

威張る幼女の戯れ言日記

百合幼女

これは僕が高校生の時の話です。
地下鉄で高校まで通っていた僕は家から高校までの途中にある大きな駅で降り、そこで友達と寄り道をしてから帰るという流れが日課になっていました。
内容はマクドナルドでハンバーガー片手にお喋りをしたりゲームセンターのクレーンゲームで可愛いフィギュアを狙ったりと、極々普通の男子高校生らしい事ばかりです。


思えばその日は特に「幼女日和」だったのかもしれません。
朝の段階から既に登校中のランドセル幼女に2人も遭遇しており、更に放課後高校を出発してから地下鉄の駅に辿り着くまでにまた1人、下校中のランドセル幼女と遭遇していたのです。
僕の気分は晴れやかであり、「生きるとはなんと気持ちの良い事か、幼女とはなんと素晴らしいものなのだろうか」と、1人で人生と幼女について感動していました。


その日の寄り道場所はポケモンセンターでした。
エーフィが書かれたクリアファイルやブラッキーのメタルチャームを購入するなどして楽しんでいましたが、そこでも幼女日和は健在でした。


「ねえねえパパ見てこれニャスパーのぬいぐるみ!かわい~」

「わあ!ゼルネアスがテレビにいる!」

「ママ!ポケモンのクッキーがあるよ!」


「成程『耳をすませば』という映画があったが此処もまた幼女の『聴く映画』と呼ぶに相応しい」等と訳の分からない事を考えながら耳を澄ませて都合の良い音声だけを拾って楽しんでいました。


そしてポケモンセンターを後にした帰り道、事件は起こります。


ポケモンセンターから地下鉄のホームに移動したところ、幼女の2人組が既に地下鉄を待ちながらキャッキャとじゃれあっていました。
「ああ、今日は本当に運が良いな」と自分の日々の行いに感謝をしつつ、僕達も地下鉄を待っていました。
さて地下鉄が到着しますが、幼女の1人は乗り込もうとしません。
どうやら様子から判断するに、幼女の1人は地下鉄に乗るのでは無くただお見送りに来てただけのようでした。


「バイバイ!」

「またね!」

「また遊ぼうね!」

「約束だよ!」


こんな言葉を交わしている姿を見て僕は「彼女達の為にも将来必ずどこでもドアを実現化させねば」と決意を固めるのですが、ここからが本番でした。


なんと地下鉄に乗り込む直前、2人の幼女はハグをしたのです。


2人の幼女は“““ハグ”””をしたのです。


幼女は“““““抱き合った”””””のです!!!


世の中にこんな事があっていいのか?
無邪気さ故の免罪符は何処まで効力を発揮するのか、流石にこれは卑怯であり非情なまでの可愛さなのではないのか?
一個人の精神を貫いておきながら「無邪気なだけだからね、別に他意は無いし仕方無い」が許されるのか、そんな「仕方無さ」が許されていいのか?


「可愛さ」という百合幼女が魅せる圧倒的圧力の理不尽さに異議を唱えつつ、目の前で発生している事象の衝撃に僕は涙ぐまずにはいられませんでした。


その恐ろしい程美しく、しかし儚い一瞬は僕の網膜に「写真」として鮮明に保存され、脳内のアルバムで色褪せる事無く輝き続けます。
そして年月と共に幼女以外の無駄な情報は削ぎ落とされ、更に思い出補正によって「2人の幼女が抱き合っている姿」のみが抽出され洗練され神格化されていくのです。
あれから数年の月日が流れた今でも瞳を閉じれば2人の幼女が抱き合っている姿が明確に浮かび上がります。
浮かんだ写真によると彼女達に天使のような翼が生えているという気がしないでもないのですが、これが「神格化による結果」なのか「元々羽根が生えた天使だった」のか、それを確かめる術はもう何処にもありません。
しかしその幼女達が天使のような可愛さを誇っていたという事は確かであり、その出逢いが僕を今の僕たらしめているという事もまた、どうしようもなく確かな事実なのです。


あの出逢いが無ければ僕は恐らく「ただの幼女好き」なだけだったでしょう。
僕が「幼女好き」から「幼女」に昇華する事が出来た理由は紛れもなくあの神々しい光景を見たからであり、あのような「百合幼女」こそが人類を救う鍵になるのだと僕は確信しています。